こう書くと、死んだらもう終わりじゃないか、どうせ脳死すれば遠からず 心臓死がやってくるのに、何とバカで利己的なことを考える女だろうと思われ るかもしれない。しかし、私には私なりに考え、感じ、そして経験し、その結 果脳死における臓器移植に同意しないのである。
まず、脳死が人間の死であるかどうかについて。
医学的に脳死が人間の死であると定義されているのならば、それに反論す るつもりはない。脳死=人の死と認めてもよい。事実、脳死はもはや不可逆的 状態であり、生還した人は(たぶん)いないのだろうから、医学的見解には同意 する。
しかしそれでも私は自分の家族の脳死における臓器提供には同意しない。 私にとって「納得できる」死とはいまだに「心臓死」なのである。体がまだ暖 かく、(人工呼吸によってではあっても)呼吸している以上、心情的に「死」を 受けいれることができないのである。理屈の上の死と、家族が納得できる死は 同じではない。
柳田邦夫は「犠牲(サクリファイス)」(文藝春秋)などの一連の著書で、彼自 身がご子息をなくした経験から脳死や臓器移植について多くの考察を重ねてい るが、私が柳田氏に最も共感するのは、人の死において大切なのは、死にゆく 人の遺志を尊重することと同時に、家族が愛する人の死を「受容」できるだけ の余裕がなくてはならない、ということである。その余裕あってこそ、死に瀕 した人の遺志とは何か、どのようにすればその人の遺志を活かすことになるか、 という問題を考えることができるのだ。臓器を入れる器を持った人たちがヘリ コプターで到着する中で、また報道陣が何百人も押しよせる中でそのような余 裕を持ち得るだろうか。
私は9歳で生みの母をなくしているが、あまりにも突然に訪れた死を私は理 解できなかった。彼女は父が不在の時に一人で家で死んでいたのだ。私はその 時すでに祖父母のもとにあずけられていたので、全く状況を理解できなかった。
すでに心臓が止まって冷たくなっている人を前にしても、死を「受容」す るのは恐ろしく困難なのである。ましてや、まだ体は暖かく、心臓も動いてい る人をそばに、はたして家族は「死」を早急に受容できるであろうか?
今回の移植手術に関しては、どうも報道が先行してしまった感がある。最 初の脳死判定では、脳波が検出されて脳死判定が確かおりなかったはずだ。
もちろん、医学的にみて、その程度の脳波では、もはや甦生は不可能であ るとわかっていたのであろうが、しかし、それにしても、あの報道では、「い つ脳死するか」をむしろ待っているような印象を受けかねなかった。あそこま で報道する必要があったかどうか。
また、身内の突然の死を前に動揺している家族の方々に対して、彼らが死 を「受容」することができるだけの余裕が与えられていたか、そこが私には気 になる。
もし夫が突然脳死状態になったらば、私はまちがいなく動揺して、最後の 最後まで甦生治療をしてくれとせがむであろう。たとえ医学的にもはや手遅れ とわかっていても、一連の甦生処置をしてもらわずして、死を受け入れること はできないだろう。
いくら普段からドナー登録をして、家族が同意していたとしても、やはり 家族には最後の心の準備、そして死にゆく者と過ごす時間があってもいいでは ないか。
下手をすると、脳死段階に陥ると、甦生処置よりも臓器移植コーディネー ションのほうが先に走ってしまうような気がして、私は恐ろしい。もちろん医 師は医の倫理をもって、最善の措置を尽して甦生の努力をして下さると信じて いるが。
報道陣よ、死にゆく者とその家族にしばしの時間と静けさをまもってやっ て下さい。
Author: Kyoko Rikitake
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